(Kriegs-gesetz)までが作られているが、日本には、国の未発の非常事態に対応する法律さえ作られていないのである。そればかりではない、日本には、会計事務所の効果的・合法的・発展的運営に関する手引書すら無い。この点では、日本の会計事務所を取り巻く社会的環境は貧困すぎる。米・英・独・佛の各国と比較すると、この点の貧困さは、ぞっとするばかりである。その原因は、日本が国家として、会計事務所の法人化を認めなかった点が、もっとも大きい、と認められる。この点は、私が計算センターを開設した暁には、その全会員に、飯塚毅会計事務所の長年かけて練り上げた管理文書を、完全に全面開放して、その体質改善に貢献しなければならない。 以上の考え方がほぼ固まった昭和38年2月、私は専修大学法学部大学院教授の田中勝次郎博士から、意外なことを聞かされた。田中勝次郎博士は日本税法学会の初代理事長であり、国税庁法律顧問であり、東北帝国大学時代の私の恩師勝本正晃博士から、飯塚の法学博士の学位論文執筆上の指導教授を依嘱されていたお方である。話の要点は、国税庁が飯塚毅税理士の抹殺を狙って調査を始めた、というものだった。突如としての、国税当局と真向から対立するいわゆる飯塚事件の勃発である。 翌昭和39年3月、宇都宮地検は飯塚の職員4名を逮捕拘禁し、5月1日に公判を開始し、昭和45年11月18日の判決公判で無罪が宣告されるまで、実に6年半を費したのだった。(1)その前、飯塚事件勃発以来一度も飯塚を喚問しない当局の態度を不快とし、私は国会を通して検事総長に対し飯塚の喚問を要求し、昭和40年7月末、宇都宮地検に出頭し2日間に渡り、詳細に当局の主張を反はん駁ばくし、主任検事はこれを丁寧に書き取り、終って私に詫びたのだった。 私は、法廷が事件の決着としての判決を出すのを待たず、事件の表面上の鎮静を待って、昭和41年10月、栃木県計算センター(TKC)を宇都宮に創設した。資本金は100万円だった。国税当局による飯塚は大型の脱税指導者だとの宣伝がゆき届いていたのか、会員会計人の募集は難なん澁じゅうを極めた。数千通のDMを出して東京商工会議所に導入セミナーを開催しても、集まる会計人は1人か2人、時にはゼロということもあった。泣かされた。 然しかし、初志忘れるべからず、である。職業会計人の職域防衛と運命打開の悲願は、蟻ありの歩みのように遅い速度ではあったが、徐々に全国の職業会計人業界に浸透して行った。計算センターは、東京へ、大阪へ、岡山へ、と伸びて行った。伸びるたびに電算機は富士通さんにお世話になったが、とくに富士通さん4
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